# 日記
 CIOの半個体電池モバイルバッテリーを購入。
 今まで使っていたのと同じ容量、同じデザインを選んだところ、なんと古い方のバッテリーがうっすら膨らんでいることが判明。実は以前も知人から「それ膨らんでない?」と指摘されたことがあったのだが、膨らんでいるデザインだと思いこんでいたのである。
 考えてみれば、膨らむことに誰より神経質なモバイルバッテリーメーカーが、わざわざ膨らんでいるようなデザインを採用するわけがない。お得意の正常性バイアスが炸裂してしまっていた……。

 膨らんだバッテリーは市の回収センターに直接持ってこいとのこと。
 ついでに相当古いばかでかバッテリーも捨てに行く。忘れぬよう。


 怪談は短編や掌編が好きだ。というか、怪談は「物語」と相性が悪いと思っている。 「物語る技術」の進化は、明らかにエンタメの方に進んできた。起承転結、序破急、三幕構成、セイブ・ザ・キャットなどなどいずれもいかに読者を飽きさせないか、驚きや発見を与えられるか、共感をさせるかを目的とした構造化手法である。つまり読み手の面白さを喚起させるための技術なのだから、そうした方法論によって生み出される「物語」は当然「面白」くなる。怖くはなりづらいのだ。  個別のシーンやエピソード、キャラクターや画面構成は確かに怖い。ゾッとするし、ヒヤッともなる。だがそれらを物語として組み立てると、その全体像は「面白く」なってしまう(少なくとも自分は)。生理的な恐怖心だけしか認めないというのは、己の感性が貧しすぎると分かってはいるのだが、短編作品やインターネットの怪談コピペから得られる怖さや気持ち悪さにどうしても惹かれてしまう。  強い言葉を使ってしまえば、怪談を「物語る」行為は"不純"だとさえ思っている。SCPがこれほどしっかりウケたのも、物語という不純物を可能なかぎり取りのぞいたからだ、という側面があるのではないだろうか(適当な意見です)。  もっと言うと、「上手い文章」さえ怪談においては余分なのではないかと感じる。  なぜかを考えてみると、文章のうまさは「作られたもの」感を出しすぎてしまうからではないかと思った。ホームビデオで撮られた映像とテレビ番組の映像では、明らかにテレビ番組のほうが高い技術で作られているが、ホラーは人に創られていることが明らかなものよりも、ホームビデオの映像のように、本物かもしれないと思わせる「生っぽさ」のほうがいい味を出す。恐怖の体験談を語るだれかの台詞が「プロの水準で作りこまれた読みやすい文章」であったら、どこか白けるところが、やはりあるのではないだろうか。  一度文章技術を身につけると自然な悪文を書くことができなくなる、と言われることがある。これは複数のプロの作家が言っていたのでそうなのかもしれない。  だからといって文章技術を放棄すべきだとも思えない。このバランス感覚をどう身につけたら良いのかはまだ答えが出てこない。