# 創作練習 「キリン」(執筆:2時間30分)
 Tくんが小学生の頃に住んでいた町には古い住宅地があった。歴史があるだけに古びてもいて、マンションなんてもちろんなく、おんぼろな一軒家とアパートが、入り組んだ細い道を威圧するように林立している。道路は自動車がすれ違うのも困難であったから、日頃から車通りが少ない。比較的高齢な人が多く住んでいたこともあり、通学路になっている通り以外は昼日中でもほとんど人が通らない、閑静な、と言えば良く言いすぎなうら寂しい町内だった。
 そんな町内のどこかに「キリンを飼っている家があるらしい」という噂があった。
 キリン。
 そう、あの首の長い、黄色くて、茶色い斑点模様をまとった草食動物のことだ。
 アフリカ大使館の人が飼っているから特別に法律で許されているのだとか、冬は寒いから首をぐるぐると巻いて家の中で飼うのだとか、子供なりの論理であれこれと噂話が広がっていた。
 噂のつねというもので、直接キリンを見たという同級生はいない一方で、親戚が見たらしい、いとこが餌をあげたらしい、などと間接的な目撃情報はたくさんあった。TくんもTくんの友人も直接見たことはなかった。
 その住宅地に当時住んでいた同級生のNさんも、もちろん見たことはないと主張していた。「主張していた」というのは、クラス中で「あいつはキリンのことを隠しているのだ」と疑われていたからだ。半分冗談、半分本気でいつもキリンの話を振られていたNさんはうんざりしていたようで、キリンの話になるたびに不機嫌そうに黙りこんでいた。
 そんなある日、Tくんは親の都合で九州の方に引っ越すことが決まった。見知らぬ遠くの地域で過ごすことになる不安、今の友達と離れてしまうことの寂しさ、子供時代には気持ちの整理が難しいイベントだ。日に日に元気がなくなっていくTくんを見かねたのか、掃除の時間中にNさんがこっそりと、Tくんに手紙を渡してきた。サンリオのかわいらしいキャラクターが描かれた小さな便箋には、「5時にうちにきて」とだけ書かれていた。
 学校を出て、9月の残暑でまだ暑い夕方の時間、TくんはNさんの家に向かった。
 Nさんは家の玄関の前で、夕陽で顔をオレンジ色に染めながら、日陰にも入らず立っていた。恥ずかしながら告白をされるのかと思っていましたと、当時を振りかえってTくんは懐かしそうに笑う。
 Nさんは「最後だからTくんにだけキリンの秘密を教えてあげる」と、随分暗い表情で言ったのだそうだ。Tくんは興奮した。もしキリンがいないのだとすれば、それは証明のしようがない。だからきっとキリンはいるのだ、キリンを見せてもらえるのだ、と期待した。自分だけが噂の真実を知れるということにTくんの胸は弾んだ。

 浮かない表情のNさんが先導し、2人は入り組んだ住宅地を進んでいった。
 夕方の町はうっすらとテレビの音や夕食の匂いが漂い、時折住人であろう老人とすれ違う。遠くからは廃品回収の車の音が聞こえてくる。何も言わないNさんの長く伸びた影を踏みながら、Tくんは徐々に不安になっていった。公園もコンビニもない、友人もほとんど住んでいないその地域にTくんは慣れていなかった。黙々とついてきてしまったこの道の複雑さを覚えていられるだろうか。もしも突然Nさんが駆けだして姿を消したら、自分は果たして夕飯までに家に帰れるだろうか。気づけばTくんはランドセルの肩のベルトを両手でギュッと握っていた。
 やがて、Nさんはとある家の前で立ち止まった。
 道路の行き止まりになっていたそこは、門扉の向こうにそれなりに広い庭があって、奥には古い平屋の家が建っていた。庭は広いわりに手入れがあまりされておらず、植えられた花が枯れていたり、伸びすぎた木の枝がブロック塀の上を飛び出していたりした。家まで続く敷石は割れていたり苔むしていたりして、「お金持ちがかつて住んでいた廃墟」というような印象だった。
「ここにキリンがいるん?」
 TくんがNさんに問うと、Nさんは「しっ」と伸ばした人差し指を口もとにあて、Tくんの腕を掴んで門扉の横のブロック塀にさっと身を隠した。Nさんの汗ばんだ掌にドキッとしながら、Tくんも素直に従う。夕暮れから夜になりつつある時間、Nさんの顔は影になってあまり見えなかった。
 腰をかがめ、ブロック塀の穴から庭を覗くNさん。
「出てくるから見てて」
 Tくんも慌てて隣の穴を覗き込む。
「この時間はいつも出てくるんだけど」
 夕陽の角度の関係もあって見づらかったが、穴の向こうには荒れ気味の庭とさっきの家の一部が見えた。よく見ると子供用の自転車が置いてあったり、かびて汚れたサンダルが裏返ったりして、お金持ちではない、よくある普通の家の生活を感じさせた。こんな家に本当にキリンがいるのだろうか?
 ランドセルを脇に下ろして、TくんとNさんはじっと穴の向こうを見つづけた。じれたTくんがたまにNさんの方を見たが、Nさんは微動だにしないままじっと壁を覗きつづけている。その熱心な姿に、Tくんはいつ「もう帰ろう」と切り出そうかと悩んでいた。

 と、
「きた」
 鋭くささやくNさんの声に驚いて、Tくんは穴を覗きなおした。
 家の玄関の引き戸がガラガラと開いて、中から人が出てきていた。
 覗き穴の大きさの関係で顔は見えないが、男女の大人が2人出てきたらしい。
 2人はサンダル姿で庭に出て、そのままふらふらと歩き回っている。
 なんだ?
「もっとしゃがんで」
 Nさんが静かにそう言う。意味が分からないままさらに腰を落とすと、男女の顔が見え
 ーーなかった。
 腰をかがんでもかがんでも、首が伸びているのだ。
 肌色の樹木でも見ているように、くびれた長い棒状の首(?)が、人間の両肩の間から生えて、のぞき穴の上へと伸びつづけている。
 それが、庭を歩き回っている。
 目的もなさそうに、ぶらぶらと。
「見えた? ねえ見えた?」
 Nさんから訊ねられても、Tくんは混乱したまま何も言えなかった。
 やがて玄関からさらに同い年ぐらいの子供(?)も2人出てきて、合計4人が庭をうろつきまわるようになった。子供もまた、顔は見えなかった。
 Tくんは恐ろしさと、気持ち悪さと、意味の分からなさで、すっかり固まってしまった。Nさんが何かを何度も訊ねていたはずだが、その内容は覚えていないという。ただ、突然
「行儀」
 という言葉がTくんの頭上から降ってきた。
 ハッと上を見ると、ブロック塀の上から長い首と顔が、男女2つ並んで突き出て、彼らをじっとりと睨んでいた。
 男の顔をしたそれがもう一度、今度は怒ったような表情で
「行儀がわるい」
 と言った。
 そこでようやくTくんとNさんは、弾けるように叫んで、来た道を駆け戻ったのである。
 必死に走りながらNさんは「キリンじゃなかったよね! あれはキリンじゃ、ないよね!!」と荒い呼吸で何度もTくんに確認した。Tくんはそれに答えることもできず、ただ泣きながら家まで走って帰った。どうやって家までの帰り道を辿ったかは今も思い出せない。
 そのまま高熱で寝込んでしまったTくんは、結局引っ越し当日まで臥せっていて、学校にはついに通えなかった。

 後日「あの家」に置き忘れたランドセルが自宅に届けられた。
 Nさんが届けてくれたのか、「あれ」が届けてくれたのかは、分からないまま処分したという。