# 創作

# 習作『卵塊団地』
「正直……本当にそんなことがあったのか、自分でも怪しくなってきてなあ」
 Fさんは介護用ベッドで身を起こし、煙草を灰皿で潰しながら話しはじめた。
 まだ携帯電話もないような時代、昭和の中ごろのFさんの思い出だ。

 Fさん一家が住んでいた郊外のその団地は、当時からすでに入居者が少なくなっていた。
 中心街から距離があるうえに、周囲にあった病院や学校などは徐々にその姿を消しはじめていて、じわじわと"過疎"という文字が人々にちらつき始めていた。
 もともとその土地の生まれであったFさんは、頑固な気質も手伝ってなかば意地でその団地に家族で住みつづけていたという。
 ところがある時期から、妙に団地が活気づいてきた。団地全体が、というわけではなく、Fさんが住んでいた4号棟だけやけに入居者が続いたのである。
 不思議に思っていたFさんだが、人が増えていくにつれて徐々にその背景が分かってきた。
 例えば、宗教のパンフレットが郵便受けに入ってくる。
 例えば、2人組の主婦がにこやかに家を訪れて、宗教勧誘を行ってくる。
 例えば、毎朝7時に窓の外から聞いたこともない体操のかけ声が聞こえていくる。
 新興宗教の信者たちが4号棟にこぞって移住してきたらしいのだ。
 ただでさえ不便な土地に、わけのわからない宗教の信者が群れて押し寄せてきたのだから、今までかろうじて住んでいた入居者たちは次々と去っていった。Fさんの家族も不気味に思って引っ越したがったが、外から来たふざけた奴らに負けるわけにはいかないと、Fさんはしぶとく団地に住みつづけた。結局家族はFさんの実家に避難し、Fさんだけが団地に残ったという。

 信者たちからの笑顔の攻勢を怒りや無視で跳ねのける生活を続けていた、ある夜のこと。
 夜中に外がうるさくて目が覚めたFさん。またあいつらか……とうんざりしながら音がする方、南側の窓のカーテンを開いた。外の様子を確かめ、怒鳴りつけるつもりだった。
 だが、カーテンを開けた瞬間にFさんは凍りついた。窓の外の上から人間が落ちていったからである。
 Fさんの部屋は5階になる。上は6階と屋上だ。下は植木もないレンガブロックの道。落ちればひとたまりもない。
 ゾッとしながらもFさんは窓をカラリと開け、身を乗りだして地面を見た。
 暗くても一瞬で分かった。建物に沿ったブロックの道上に、大量の人間が潰れて拡がっていたのだ。
 横や階下の窓を見ると、何かを叫びながらひとり、またひとりと人間が飛び降りていく。文字どおりの老若男女が、次々に地面に花開いていく。
「やめろ!! やめろぉ!!」
 どれだけFさんが叫んでも彼らは止まらない。急いで部屋に引きかえし警察に電話をしようとしたが、通じない。電話回線自体が切られているのか、どれだけダイヤルを回してもどこにも繋がらない。
 Fさんは電話を放りだして玄関から外に出ようとしたが、ドアが開かない。明らかに外から押さえつけられている。叩き、体当りし、叫び、居間の椅子を叩き付けてもドアはびくともしなかった。

 Fさんはどれだけ時間が経ったか憶えていないという。玄関で耳をふさいでうずくまっていたところで、突然チャイムが鳴った。
 恐怖しながらFさんが玄関をそっと開けると、そこには眩しい朝陽を背に、作業着姿の若い男女がふたり笑顔で立っていた。
「孵化が終わりました。ご協力ありがとうございました」
 そう言って、うやうやしく頭を下げてきたのだという。
 Fさんはしばらく呆然となった。やがて正気を取りもどし、ふたりを押しのけ団地の1Fへと急いだ。エレベーターに乗るのも恐ろしく階段を全力で駆け下りた。
 電話ボックスから警察を呼ぼうと思って建物を飛び出したのだが、
「死体なんてどこにもなかったんだよな……」
 Fさんが言う。
「一体残らず。血の跡ももちろんない。鳥が鳴いてて、空気も冷えてて、不気味なくらい爽やかな夏の朝だったよ」
 Fさんはそれでも警察に連絡をしたものの、死体や飛び降りの痕跡はやはり見つからなかった。Fさんが違法な薬の使用を疑われたぐらいで、話はそこで終わってしまった。

 その日を境に、一斉に信者たちの引っ越しが行われていった。1か月もせずに団地はもぬけの殻となり、Fさんと他ごくわずかな住民が残っただけだった。Fさんは残った人たちにあの日の夜のことを聞いて回ったが、だれもそんな集団自殺は見ていないし声を聞いてもいないと語った。

 Fさんはこの記憶を、自分という老人の妄想であると考えはじめているという。
「普通そんなこたありえんし、おれ以外だぁれも憶えちゃいないしな。でも……あれがもし、本当だったんだとしたら」
 新しい煙草を取りだして火をつけたFさんが、じっとこちらを見つめる。
「あいつらはあのあと、どんな姿に"成った"んだろうな」

# お題練習

◯ 適当に思いついたものを書くのではなく、狙ったテーマやお題に沿った話を考える練習をしましょう
【お題】怪異との再会 怪異に出遭ったと思ったら、実は子供の頃にすでに出遭っていた。 子供の頃から怪異に見つめられていたのだ、と改めて知ってしまう話。
◯ 子供の頃に出会うものと言えば? 動物、同年代の友達、乗り物、遊園地などの遊び場、テレビ番組、ゲーム、おもちゃ、絵本、歌、あやしてくる人、子供しか行かない場所、祖父母、祖父母の家や田舎 ◯ どれが良さそう?  あやしてくる他人が怖いかも。 ◯ 「あやしてくる他人」でざっくりあらすじ
2人の子供がいるMさん。公園に行くといつも子供をあやしてくれる老夫婦がいる。 保護者仲間のお母さんたちは気にしていない様子だが、Aさんはなんとなく不審に思って距離を置いている。 ある日公園で子供を遊ばせているうちに、ふとしたタイミングで子供を見失ってしまった。 探してみると、今まで気付かなかった公園の目立たない場所にベンチがあり、そこで例の老夫婦が子どもたちに絵本を読ませているようだ。 警戒しつつも礼をするために近付くと、読ませている本は絵本ではなかった。不気味な言葉が書かれている詩集のようなものだった。 老夫婦はページをめくりながらニコニコと本を読み上げ、子どもたちもそれを復唱している。 すぐに子供を引きはがし、二度とその公園には行かないようにした。 後日、老夫婦の話を親にすると、お前も子供の頃に公園でよく老夫婦に絵本を読んでもらっていたよ、と言われる。 親から教えられた老夫婦の特徴があの老人たちと一致してゾッとした。 あの本の内容を暗唱できてしまう気がして、できるだけ考えないようにしているという。
◯ 本文を書いてみよう 【タイトル】そらんじ 「そのアルバム、捨ててもらっても良いですか……?」  リビングの座卓で、主婦のMさんは窓の外を見ながらそう言った。  私は手渡されたアルバムを1枚ずつめくって、まだ幼い姿のMさんの思い出を眺める。産まれたばかりの赤ん坊、芝生で走り回りながらこちらを笑顔で振り向く幼子、校門前で母親と並んで立つ小学校の入学式、観光地で撮ったであろう家族写真。退色して褪せぎみの写りが家族の歴史を感じさせる。  ごく当たり前の、幸せそうな姿が収められたアルバムだった。 「捨てていいんですか? 大切な品に見えますけど」  私の疑問にMさんはしばらく黙っていたが、やがて少しずつ理由を話してくれた。  それはまだMさんの子どもたちが幼稚園に入る前のこと。5年前の話だった。  Mさんの家の近くにはそれなりに広い公園がある。砂場や滑り台などよくある遊具が揃い、公園自体が広くて場所の取りあいになりづらい。Mさんがよく行っていた頃は年長で乱暴な子どもがあまりいなかったので、小さな子どもを遊ばせるにはぴったりだったという。MさんやMさんの友人のお母さんたちは、よく木陰のベンチに集まって元気ざかりな子どもたちを遊ばせながら、雑談に花を咲かせていた。  公園に来るのはもちろん親子だけではない。スーツ姿のサラリーマンがベンチでサンドイッチを食べていたり、大学生が演劇のセリフを練習していたりした。  そのなかにはとある老夫婦も含まれていた。週に2、3回、決まってお昼すぎに公園を訪れて、ベンチでふたりで佇んでいたという。  老夫婦は子ども好きだったようで、よく遊びに来ていた子どもたちを構おうとした。そんな老夫婦を遊び盛りの男の子はあまり相手にしていなかったが、大人しいタイプの子たちはウマがあったのか、楽しそうに話しかけにいく姿がしばしば見られた。 「私はずっと厭な感じがして、正直避けていました」  Mさんの直感をよそに、その老夫婦はまわりの保護者からは信頼されていて、だれも彼らが子どもと遊ぶことを咎めたりはしなかった。それどころか、ちょっと子どもから目を離したいときに、老夫婦に子どもを見ててほしいとお願いをする人さえいた。なぜ皆があの老夫婦をそんなに受け入れているのか、Mさんには理解できなかったそうだ。  ある日、Mさんはいつものように、2人の子どもたちと公園に訪れていた。  しばらく子どもを遊ばせていると、Mさんは尿意を覚えた。その日は例の老夫婦がいたが、砂場で他所の子どもたちと遊んでいたため、子どもたちに軽くひと声だけかけて、そのまま用を足しに行ったという。  戻るまでに五分もかからなかったはずだと言うMさんの言葉と裏腹に、子どもたちの姿は公園に見当たらなかった。砂場にいたはずの老夫婦も居なくなっていて、Mさんは嫌な予感がした。余計な気を回しただれかが、子どもたちを老夫婦に引き合わせたのかもしれない。  公園のあちこちを探すと、今まで存在さえ知らなかった遠くのベンチに、果たして老夫婦と子どもたちが座っているのが見えた。今すぐ子どもたちを連れて帰りたいが、彼らに落ち度があるわけではない。イヤイヤではあったが礼を言うためMさんは老夫婦の元へ早足に向かった。  彼らはなにかの、本を読んでいた。大きくて薄い本だ。ベンチに腰かけた老婆が膝に本を開き、左右の子どもたちがそれを見つめている。お爺さんは老婆の後ろに立ってニコニコと子どもたちを見つめている。  最初は絵本だと思った、とMさんは言った。  だが近づいていくにつれて、絵本ではなさそうだということが分かってきた。開いたページに絵が描かれていなかったからだ。大きなページのなかに縦書きの文字がいくつも書かれている。ずいぶん余白が多かったので、詩集であるようにも見えた。  老婆のしわがれた声が聞こえてきた。  楽しそうに本を読み聞かせている、と思ったのだが、読み聞かせとはちょっと違っていた。  老婆の話し声のあと、左右の子どもたちもまた何事かを言っているからだ。老婆が話し、子どもたちが喋る。また老婆がなにか発し、子どもたちも繰り返す。  復唱させているのである。  彼らが何を言っているのか、その本に何が書いてあるのか、しっかりと分かるぐらい近づくと、それはこうだったと、Mさんは語った。  たにのごろうが むすめをころした  あたまつぶして はらさいて  おまえのははおや ばいたのねしごと  みずこたべては くそをひる  いしもて やりもて とところせ  むらさともして ぐじゅ じゅじゅり  彼らはさも楽しそうに、笑顔で読み上げている。  Mさんはとっさに子どもたちの腕を掴んで抱きよせた。不思議そうに見上げる子どもたちと、笑顔のままこちらを見つめる老夫婦。 「奥さんもどうですか?」  もはやひと言も発せられないまま、急いで子どもたちを連れて家に帰った。2人にはあの老夫婦に2度と会わないこと、今日あったことは全部忘れることを言いつけた。また、今までこういうことが何度もあったのか、と問い詰めたが、覚えていないという。子どもたちはMさんの剣幕におびえて泣きだしてしまい、それ以上は確認できなかった。  Mさんはその公園には二度と行かず、遠いとなり町の公園に、自転車で通うようになった。  公園での出来事があったその日の夜、Mさんは仲の良い母に電話で老夫婦の件を話した。こんな恐ろしいことがあった。もう二度とあの公園には行けない。子どもたちに変なトラウマができていないといいが……  ところが、母親はあっけらかんと「おまえも昔は公園で本を読んでもらうのが好きだったね」と言ったのである。  そんな記憶はまったくなかったMさんに、母は「アルバム見てみて。公園の写真、残ってたと思うよ」と言い、Mさんが実家から持ってきていたアルバムを通話ごしに開かせた。  母に言われたページを見ると、そこにははっきりと、笑顔でベンチに座る、2人の老人に挟まれた小さなMさんの写真があった。  写真に写っていた老人たちの顔は、今日会った老夫婦とまったく同じであった。  その写真を実際に私は見た。人懐こく、優しそうな老人が2人、ベンチに座り、幼いMさんの左右でにっこりと笑っている。  私はその写真をなんとなく指でなぞりながら、Mさんの言葉を静かに聞いた。 「今も暗唱できるんです。もっともっとたくさん。あの言葉たちを」  たやすくそらんじられることの意味を、これ以上考えたくないと、Mさんは吐き捨てた。

# 創作練習 「キリン」(執筆:2時間30分)
 Tくんが小学生の頃に住んでいた町には古い住宅地があった。歴史があるだけに古びてもいて、マンションなんてもちろんなく、おんぼろな一軒家とアパートが、入り組んだ細い道を威圧するように林立している。道路は自動車がすれ違うのも困難であったから、日頃から車通りが少ない。比較的高齢な人が多く住んでいたこともあり、通学路になっている通り以外は昼日中でもほとんど人が通らない、閑静な、と言えば良く言いすぎなうら寂しい町内だった。
 そんな町内のどこかに「キリンを飼っている家があるらしい」という噂があった。
 キリン。
 そう、あの首の長い、黄色くて、茶色い斑点模様をまとった草食動物のことだ。
 アフリカ大使館の人が飼っているから特別に法律で許されているのだとか、冬は寒いから首をぐるぐると巻いて家の中で飼うのだとか、子供なりの論理であれこれと噂話が広がっていた。
 噂のつねというもので、直接キリンを見たという同級生はいない一方で、親戚が見たらしい、いとこが餌をあげたらしい、などと間接的な目撃情報はたくさんあった。TくんもTくんの友人も直接見たことはなかった。
 その住宅地に当時住んでいた同級生のNさんも、もちろん見たことはないと主張していた。「主張していた」というのは、クラス中で「あいつはキリンのことを隠しているのだ」と疑われていたからだ。半分冗談、半分本気でいつもキリンの話を振られていたNさんはうんざりしていたようで、キリンの話になるたびに不機嫌そうに黙りこんでいた。
 そんなある日、Tくんは親の都合で九州の方に引っ越すことが決まった。見知らぬ遠くの地域で過ごすことになる不安、今の友達と離れてしまうことの寂しさ、子供時代には気持ちの整理が難しいイベントだ。日に日に元気がなくなっていくTくんを見かねたのか、掃除の時間中にNさんがこっそりと、Tくんに手紙を渡してきた。サンリオのかわいらしいキャラクターが描かれた小さな便箋には、「5時にうちにきて」とだけ書かれていた。
 学校を出て、9月の残暑でまだ暑い夕方の時間、TくんはNさんの家に向かった。
 Nさんは家の玄関の前で、夕陽で顔をオレンジ色に染めながら、日陰にも入らず立っていた。恥ずかしながら告白をされるのかと思っていましたと、当時を振りかえってTくんは懐かしそうに笑う。
 Nさんは「最後だからTくんにだけキリンの秘密を教えてあげる」と、随分暗い表情で言ったのだそうだ。Tくんは興奮した。もしキリンがいないのだとすれば、それは証明のしようがない。だからきっとキリンはいるのだ、キリンを見せてもらえるのだ、と期待した。自分だけが噂の真実を知れるということにTくんの胸は弾んだ。

 浮かない表情のNさんが先導し、2人は入り組んだ住宅地を進んでいった。
 夕方の町はうっすらとテレビの音や夕食の匂いが漂い、時折住人であろう老人とすれ違う。遠くからは廃品回収の車の音が聞こえてくる。何も言わないNさんの長く伸びた影を踏みながら、Tくんは徐々に不安になっていった。公園もコンビニもない、友人もほとんど住んでいないその地域にTくんは慣れていなかった。黙々とついてきてしまったこの道の複雑さを覚えていられるだろうか。もしも突然Nさんが駆けだして姿を消したら、自分は果たして夕飯までに家に帰れるだろうか。気づけばTくんはランドセルの肩のベルトを両手でギュッと握っていた。
 やがて、Nさんはとある家の前で立ち止まった。
 道路の行き止まりになっていたそこは、門扉の向こうにそれなりに広い庭があって、奥には古い平屋の家が建っていた。庭は広いわりに手入れがあまりされておらず、植えられた花が枯れていたり、伸びすぎた木の枝がブロック塀の上を飛び出していたりした。家まで続く敷石は割れていたり苔むしていたりして、「お金持ちがかつて住んでいた廃墟」というような印象だった。
「ここにキリンがいるん?」
 TくんがNさんに問うと、Nさんは「しっ」と伸ばした人差し指を口もとにあて、Tくんの腕を掴んで門扉の横のブロック塀にさっと身を隠した。Nさんの汗ばんだ掌にドキッとしながら、Tくんも素直に従う。夕暮れから夜になりつつある時間、Nさんの顔は影になってあまり見えなかった。
 腰をかがめ、ブロック塀の穴から庭を覗くNさん。
「出てくるから見てて」
 Tくんも慌てて隣の穴を覗き込む。
「この時間はいつも出てくるんだけど」
 夕陽の角度の関係もあって見づらかったが、穴の向こうには荒れ気味の庭とさっきの家の一部が見えた。よく見ると子供用の自転車が置いてあったり、かびて汚れたサンダルが裏返ったりして、お金持ちではない、よくある普通の家の生活を感じさせた。こんな家に本当にキリンがいるのだろうか?
 ランドセルを脇に下ろして、TくんとNさんはじっと穴の向こうを見つづけた。じれたTくんがたまにNさんの方を見たが、Nさんは微動だにしないままじっと壁を覗きつづけている。その熱心な姿に、Tくんはいつ「もう帰ろう」と切り出そうかと悩んでいた。

 と、
「きた」
 鋭くささやくNさんの声に驚いて、Tくんは穴を覗きなおした。
 家の玄関の引き戸がガラガラと開いて、中から人が出てきていた。
 覗き穴の大きさの関係で顔は見えないが、男女の大人が2人出てきたらしい。
 2人はサンダル姿で庭に出て、そのままふらふらと歩き回っている。
 なんだ?
「もっとしゃがんで」
 Nさんが静かにそう言う。意味が分からないままさらに腰を落とすと、男女の顔が見え
 ーーなかった。
 腰をかがんでもかがんでも、首が伸びているのだ。
 肌色の樹木でも見ているように、くびれた長い棒状の首(?)が、人間の両肩の間から生えて、のぞき穴の上へと伸びつづけている。
 それが、庭を歩き回っている。
 目的もなさそうに、ぶらぶらと。
「見えた? ねえ見えた?」
 Nさんから訊ねられても、Tくんは混乱したまま何も言えなかった。
 やがて玄関からさらに同い年ぐらいの子供(?)も2人出てきて、合計4人が庭をうろつきまわるようになった。子供もまた、顔は見えなかった。
 Tくんは恐ろしさと、気持ち悪さと、意味の分からなさで、すっかり固まってしまった。Nさんが何かを何度も訊ねていたはずだが、その内容は覚えていないという。ただ、突然
「行儀」
 という言葉がTくんの頭上から降ってきた。
 ハッと上を見ると、ブロック塀の上から長い首と顔が、男女2つ並んで突き出て、彼らをじっとりと睨んでいた。
 男の顔をしたそれがもう一度、今度は怒ったような表情で
「行儀がわるい」
 と言った。
 そこでようやくTくんとNさんは、弾けるように叫んで、来た道を駆け戻ったのである。
 必死に走りながらNさんは「キリンじゃなかったよね! あれはキリンじゃ、ないよね!!」と荒い呼吸で何度もTくんに確認した。Tくんはそれに答えることもできず、ただ泣きながら家まで走って帰った。どうやって家までの帰り道を辿ったかは今も思い出せない。
 そのまま高熱で寝込んでしまったTくんは、結局引っ越し当日まで臥せっていて、学校にはついに通えなかった。

 後日「あの家」に置き忘れたランドセルが自宅に届けられた。
 Nさんが届けてくれたのか、「あれ」が届けてくれたのかは、分からないまま処分したという。