# マインスイーパ
 体調悪し。トイレと居間を往復して1日が終わった。
 写経も30分のみ。


 コンピューター対戦で将棋をやっていとき、次の一手で3時間悩んだことがある。どう考えてもあと5,6手で詰められそうなのに、詰み手順が見えなくて、相手が機械なのをいいことに3時間悩みつづけた。頭が溶けるかと思った。  結果的に、詰みは見つかって無事に詰ますことができた。捨て駒で玉を危険地帯に釣り上げてから、大駒と金駒で上から押さえていく。あとから知ったが調べてみれば有名な手筋だった。一度見えてしまえばその後の勝負では頻繁にこの手順で詰ませることができるようになった。  できないうちはまったく見えないが、一度見えてしまえば当たり前にできるようになる。  このブレイクスルーを求めて試行錯誤を繰りかえすのが自分にとっての学習という行為で、手数をこなすのは地雷原を手あたり次第に走りまわっているようなもの。効率は悪いが、教科書的な学習ができない人間にとってはこの過程が必要なのだ。なにごとも地道なマインスイーパをこなしていきたい。

# 日記
 CIOの半個体電池モバイルバッテリーを購入。
 今まで使っていたのと同じ容量、同じデザインを選んだところ、なんと古い方のバッテリーがうっすら膨らんでいることが判明。実は以前も知人から「それ膨らんでない?」と指摘されたことがあったのだが、膨らんでいるデザインだと思いこんでいたのである。
 考えてみれば、膨らむことに誰より神経質なモバイルバッテリーメーカーが、わざわざ膨らんでいるようなデザインを採用するわけがない。お得意の正常性バイアスが炸裂してしまっていた……。

 膨らんだバッテリーは市の回収センターに直接持ってこいとのこと。
 ついでに相当古いばかでかバッテリーも捨てに行く。忘れぬよう。


 怪談は短編や掌編が好きだ。というか、怪談は「物語」と相性が悪いと思っている。 「物語る技術」の進化は、明らかにエンタメの方に進んできた。起承転結、序破急、三幕構成、セイブ・ザ・キャットなどなどいずれもいかに読者を飽きさせないか、驚きや発見を与えられるか、共感をさせるかを目的とした構造化手法である。つまり読み手の面白さを喚起させるための技術なのだから、そうした方法論によって生み出される「物語」は当然「面白」くなる。怖くはなりづらいのだ。  個別のシーンやエピソード、キャラクターや画面構成は確かに怖い。ゾッとするし、ヒヤッともなる。だがそれらを物語として組み立てると、その全体像は「面白く」なってしまう(少なくとも自分は)。生理的な恐怖心だけしか認めないというのは、己の感性が貧しすぎると分かってはいるのだが、短編作品やインターネットの怪談コピペから得られる怖さや気持ち悪さにどうしても惹かれてしまう。  強い言葉を使ってしまえば、怪談を「物語る」行為は"不純"だとさえ思っている。SCPがこれほどしっかりウケたのも、物語という不純物を可能なかぎり取りのぞいたからだ、という側面があるのではないだろうか(適当な意見です)。  もっと言うと、「上手い文章」さえ怪談においては余分なのではないかと感じる。  なぜかを考えてみると、文章のうまさは「作られたもの」感を出しすぎてしまうからではないかと思った。ホームビデオで撮られた映像とテレビ番組の映像では、明らかにテレビ番組のほうが高い技術で作られているが、ホラーは人に創られていることが明らかなものよりも、ホームビデオの映像のように、本物かもしれないと思わせる「生っぽさ」のほうがいい味を出す。恐怖の体験談を語るだれかの台詞が「プロの水準で作りこまれた読みやすい文章」であったら、どこか白けるところが、やはりあるのではないだろうか。  一度文章技術を身につけると自然な悪文を書くことができなくなる、と言われることがある。これは複数のプロの作家が言っていたのでそうなのかもしれない。  だからといって文章技術を放棄すべきだとも思えない。このバランス感覚をどう身につけたら良いのかはまだ答えが出てこない。

# 推敲力 2026年4月版
「ちかちゃんはもっとしりたい」という作品の説明として昨日書いた、

> 子供が級友を通じて他人の多面性を知る、という素朴な成長譚

 という一文。あらためて読むと驚くほど目がすべる。頭が理解を拒む。
 いくら文章が下手だと言っても、こんな短いセンテンスでさえ読みやすく書けないとは思わなかった。
 我ながら面白いので、どうすれば読みやすい紹介文になるかを以下に検討してみることにしよう。

 よくよく自分の違和感を観察したところ、おおむね次の2点が問題のようだ。 1. 抽象化の粒度が揃ってない、抽象化しすぎ 2. 作品の雰囲気と言葉のチョイスがそぐわない  まず1。先の紹介文は作品のコアを一文に圧縮するために抽象化を図ったわけだが、抽象化した割には「子供」や「級友」という表現が妙に具体的だ。主人公が他人の多面性を知る、というのが大筋なのであって、主人公が子供であることや、多面性を知る対象が級友であることは筋とは関係ない。主人公が子供でなくても、相手が級友でなくても、この筋は成立する。  つまり、抽象化の粒度を揃えるのであれば前半部分は一切不要で、ただ「人の多面性を知る話」と書けばいい。  が、ここまで抽象化してしまうといくらなんでも味気ない。作品理解として書くならともかく、マンガの紹介文として適切だとは思えない。もっと抽象度を下げるべきだ。  2の問題点も考えよう。この作品は登場人物の年齢的にも、リアリティラインとしても、筋のあり方としても、非常に児童書的だ。柔らかく、簡潔に伝えられるべき作品だ。その内容の説明に「子供」「級友」「他人」「多面性」とは随分客観的というか、やたらと突き放したワードチョイスといえる。作品の雰囲気とマッチしていない。作品の内容を事前に知っていたからこそ、この一文の歪さが際立ってしまったのだろう。  「抽象化せねば」の意識が先行しすぎて、作品の雰囲気をスポイルしすぎてしまった。  以上2点を踏まえると、 「もう少し具体的に」 「もっと表現を柔らかく」  書くのが適切だと思われる。  やってみよう。
小学生の女の子が、好きな男の子との交流を通して、人の心の複雑さに触れる話
 「小学生の」と「女の子」は、作品全体のトーンを知るために必要な具体性だと思うが、「好きな男の子」はどうだろうか。「主人公が内面を知りたがる」という筋で言うなら「最近ちょっとそっけない友達」や「ミステリアスな転校生」でも成立するわけだから、不要な具体性のように感じる。それよりも、
小学生の女の子が、ある日とつぜん現れた不思議な存在"チビ"とともに、人の心の複雑さに触れる話
 チビはお話(≒主人公)を動かすための中心的な装置なので、本筋に直接関係なくとも紹介文に書いておいて悪くはないだろう。 一方で、「人の心の複雑さに触れる話」はやや硬いか?
小学生の女の子が、ある日とつぜん現れた不思議な存在"チビ"とともに、人の心のいろいろな側面を知る話
 やや柔らかくなった。ここに成長譚であるニュアンスも含めたい。
小学生の女の子が、ある日とつぜん現れた不思議な存在"チビ"とともに、人の心のいろいろな側面に気づかされる話
 「発見する話」「見つける話」のほうが柔らかい気がするが、「気づく」 + 「気づきを導き手から与えられる」のニュアンスを含めるならやはり「気づかされる」ではなかろうか。  だいぶ良くなったと思うが、長くなってしまった。もうちょっと削るとしたら、「ある日とつぜん現れた」か。
小学生の女の子が、不思議な存在"チビ"とともに、人の心のいろいろな側面に気づかされる話
 読点が多くて鬱陶しいかもしれない。減らしましょう。
小学生の女の子が不思議な存在"チビ"とともに、人の心のいろいろな側面に気づかされる話

 ということで、これが現在の実力での推敲到達点となった。  28文字が42文字になって、2倍弱の長さになったが、少なくとも目は滑らなくなった。  手癖で書かずにちゃんと考えて書こうね、という、当たり前の確認作業でした。